本来の自分で生きる!アラフォー主婦のブログ

アラフォー主婦のあかやま くま子が綴る日常と、私が良いと思ったものなどのレビュー記事。よろしくお願いします。

わたしの転機

わたしにとって働くこことは、社会的ステータスを得ることと、ほんの少しだけど平均的な社会人よりも多い収入を得て優越感を得ること、だった。

 

かつては。

 

 

私は、4歳で脱毛症になり、小中学校時代に虐められた経験を持つ。

中学生の頃から41歳の現在まで、ウィッグ生活。

 

この事が、私の人生に暗い影を落としている。

ずっと、そう思っていた。

優等生になる事で私の事を虐めた人に優越感を持ち、優等生でいれば周囲の大人の過剰な心配を避けられる。

そんな学生時代。

 

私は地元の薬学部を卒業し、晴れて薬剤師として病院に就職した。

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当時から今も、薬剤師の求人倍率は高い。給与水準もそこそこ高く、医療の専門職で社会的ステータスも得られると思っていた。

私が就職活動をしていた当時は、調剤薬局はまだまだ発展途上で、キャリア目指したいなら病院でしょ、みたいな風潮があったように思う。

出来たばかりの調剤薬局というシステムを、私は心のどこかで下に見ていた。

 

ところが、病院に就職してみたものの、毎日繰り返されるルーチンワーク

患者さんと話すとか、経験を積むとか、期待していた事は、何一つできてなかった。

 

そこで、最初の転機。

 

病院を1年8ヶ月で辞め、調剤薬局に就職。

地元の企業で、10店舗程度の薬局を持つ会社。

 

心の中で少し下に見ていた調剤薬局に転職するのは、少し勇気がいる事だった。

だけど、私が最初の就職をしてからわずか1年半ほどで、調剤薬局業界は急成長。

給与水準も、病院の給与とは比べ物にならないくらい、良かった。

実際、この転職で給与は1.5〜1.8倍になった。

 

転職してすぐは、必死だった。

調剤薬局という形態に、慣れない。自分の勉強不足と認識の甘さを実感した。

これはヤバイ。

私は、私生活のかなりの時間を自己研鑽、勉強に費やした。薬学の勉強の他に、栄養や介護の分野の資格もとった。

いつしか、資格を取るというステータスも私の中に加わった。資格を取る事が目的となってしまった。

調剤薬局でも、努力しないヤツは努力しない。

努力しないのは、バカ。

心の中で、そう思うようになっていった。

 

取った資格を活かすことより、「資格を持っている私」を評価してくれる事が大事になっていく。

 

そのうち、私はもっと上を目指したい。

そう思うようになり、5年ほど勤めた会社を辞めて2度目の転職を。

2回目の、転機。

 

次の会社は、地元で当時は60店舗くらいの調剤薬局チェーン店。地元企業の中では、当時地元で一番大きな会社。

 

そこでも、ひたすら勉強、資格の取得、上昇志向。

そうするしかない。そうしないと生きられない。働くならば、みんなもそうすべき。

そんな傲慢な考えに縛られていた。

 

今思えば、自分と患者さんの関係が、置き去りだった。

人と人の、人と気持ちを扱う仕事。

そんな風に思った事は、なかったように思う。

完全に、薬というモノを扱い、説明責任をいかに果たすか。

薬や栄養、介護など、知識は人よりもある自信があった。だから患者さんから質問を受けても、適切な答えを伝えられると思っていた。

処方の監査も人が気がつかないところに気がつき、患者さんへの対応は丁寧に説明して、患者さんの話を聞く。

全部、できてると思っていた。

実際、仕事上の私の評価は、いつも、どの会社でも高かった。

 

でも私は、大事なことを置き去りにしていた。

自分がどうあるか、ということ。

 

仕事においても人生においても、大きな転機が訪れた。

 

結婚だ。私は33歳で結婚した。

3回目の転機。

 

結婚に伴い、私はそれまでいた調剤薬局から別のところへ異動になった。

社内での少し大きな仕事を任され始めたところだった。

 

私はキャリア志向が強く、「薬剤師としても会社員としても、上を目指すべき」みたいな、漠然とした焦りのようなものがあった。

 

別に誰に言われたわけでもない。

上昇志向なんだけど、登った先に何があるかとか分からない。

ただただ漠然と、「良い薬剤師、仕事のできる薬剤師になり、会社の中心人物になること」を強く意識するようになっていた。

実態のない「良い薬剤師像」。

それがどういうものか説明するのは難しいけど、「それを目指して当然」と思っていた。

 

ところが、結婚でプライベートを充実させる喜び、幸せを知ってしまった。

夫と、仕事を理由に一緒にいる時間が減るのが嫌だった。

さらに、子供の問題。

私たちは、年齢のこともあるし、早めに子供が欲しかった。

 

でも、なかなかできなかった。

 

 

次第に、仕事でどうのという事よりも、子供ができないことに焦りを感じるようになる。

私は迷わず最初から婦人科に通っていた。

が、できない、できない、できない。

授からない。

その頃から少しずつ、働き方が変わってきた。

仕事よりも、プライベート重視。

会社からの評価も、明らかに変わってきた。少しずつ、会社の中心から離れていく。

 

私はプライドもあり、焦っていた。とにかく焦っていた。

仕事は、だんだん私の仕事だったことが、他の人にふられるようになる。

プライベートでも、子供ができない。

ついに、4回目の転機が訪れる。

 

正社員をやめて、パートになる。 

 

不妊の原因が私にある事がわかり、高度な不妊治療が必要になったのだ。

とても正社員では、毎日注射を打ちに行き、頻繁にクリニックへ行くなど、出来なかった。

それでも子供が欲しくて、今しかできない事だからと自分を納得させた。

 

後で思えば、この選択が私にとって、とても良かったのだと思う。

 

不妊治療がなんとか実り、2012年に長男妊娠。

36歳だった。妊娠しさえすれば、あとは産むだけ…みたいに考えていた。

甘かった。

妊娠18週で、切迫早産で入院。36週(ちょっとだけ早産でした)で産むまで、ずーっと退院出来なかった。出産後の入院期間(帝王切開だったので、入院期間がやや長い)を含めると、5ヶ月弱の入院。

体力はガタガタ。10センチの段差が越えられない。歩けない。床に座ってしまうと、赤ちゃんを抱っこして立ち上がることが出来なかった。

 

妊娠中から産休、育休で、かなりの期間仕事をを休んだ。

就職してから、初めてのこと。

 

この、一旦仕事から離れる期間が、私の「仕事観」をガラッと変えた。

 

体力が落ち、家事も育児も大変だった。

でも、楽しかった。子供は可愛いし、夫も実家の父母も、とても協力してくれた。

子供が産まれて、はじめて親の気持ちがわかった。

4歳で脱毛症になった私を育ててくれた、親の気持ち。

私は自分が一番可哀想だと思っていたが、親だって、沢山の苦労をしてきたはずだ。

もしかしたら、私以上に…。

 

 

少しずつ体力が回復して、動けるようになり、さらに生活は楽しくなった。

動けなくなって、健康でなんの問題もなく動けることがいかに素晴らしい事か、実感した。

生活が楽しくなると、仕事への情熱的が徐々に減っていくのを感じた。

家族とたくさん過ごしたい。

育休が開けるときは、ものすごく憂鬱だった。

 

あんなに働きたくて、仕事熱心だったのに。

 

育休明けで働きはじめたが、子供は保育園に通うようになると風邪ばかりひく。

仕事を休みがちになった。

パートで復職したが、休む時に肩身が狭かった。

薬剤師は慢性的人手不足で、薬剤師が休むなんてよほどのこと。そういう雰囲気なのだ。

40度近い熱があっても朝は必ず出勤するし、熱があっても働く。当たり前だと思っていた。

 

それが、子供が具合悪くて仕事に行けない。

独身で正社員で働いていた時は、そういう子育て中の人に対して、配慮がなかったな、と思った。

 

そして、2人目が欲しくてもう一度不妊治療を。

2人目のときはすぐに授かった。

妊娠中はまたしても切迫流産で、入院こそしなかったが仕事を休まざるを得なかった。

休んだまま、産休に。

そして産んだら育休取ろうと思っていたが、ここで大きな問題が。

会社の就業規則が変わり、パートの契約期間の問題から、育休が取得できないと言われた。

びっくりした。なんとかと、人事に掛け合ったが、ダメだった。

 

予期せぬ5回目の転機。

育休がとれず、10年ほど勤めていた会社を辞めた。

 

出産後、10ヶ月ほど無職だった。

その間、初めての専業主婦に。収入がないことと、会社という所属先を失い、ずっと漠然とした不安があった。

 

2人目の子供の保育園が決まり、別の会社に再就職が決まった。

時短が使えないので、パートで復職する予定に。

ただ、2人目を産んだあと、なかなか体力が回復しなかった。

慢性的な疲れやすさと、膝と手首の痛み。

嫌な予感がして、医者にかかった。

 

リウマチだった。

幸い、私は進行性のリウマチではなかった。

半年くらいかけて整体や鍼治療で、薬を飲まなくても日常生活に困らない程度に回復した。

そのくらいになった頃、新しい会社で仕事復帰。

それが、今の会社。地元では数店舗しかないが全国規模の会社で、全国で180〜200店舗くらいの大型チェーン店。

大きな会社だからか、会社独特のゆったりとした雰囲気のある会社だった。福利厚生がとてもしっかりしていて、時短が使える期間も長い。

女性が辞めない会社だった。

 

私の他にも、子育て中の人が何人もいた。

みんな普通に休む。子供の熱、保育園や学校の行事…。

 

ある時、保育園から子供が熱を出したと連絡があり、迎えに行かなければいけなくなった。

その日はとても忙しかった。

でもみんな、早く行ってあげてと言ってくれた。

 

「仕事は代わってあげられるけど、あなたの家族の“お母さんの仕事”は代わってあげられないんだから、早く行ってあげて」

 

仕事は代わってあげられるけど…。

 

衝撃的だった。

そんな考え方があるのか!と。

たしかに、母親業は他の人とは代われない。

 

 

就職して、はじめてかもしれない。

チームで働くという事を知った。

 

そこから、働く上で気持ちの余裕が生まれるようになった。

体力も、少しずつ回復していった。

子育ても、少しずつ楽に。

私は、自分と向き合うという事が、できるようになっていった。

 

リウマチになり、患者さんの気持ちも実感としてわかるようになった。

病院には、いろんな人が行く。

病気を治したい人、病気を治す事を諦めている人、完治は望んでなくて現状維持目的の人、治らなくても病気とうまく付き合えている人…。

 

患者さんの生活のこと、今目の前にいる人が本当に望んでいるのは何か、すごく考えるようになった。

いつしか、パートだからとか、社会的ステータスがどうのとか、会社に認められてとか、考えなくなった。

 

それどころではない。

考える事は山ほどあった。

自分がどうしたいか。何を望んで、何をするか。

同僚たちに私がしてもらっている事、私がしてあげられる事、できる事は何か。何を望まれているのか。

家族の中の自分、職場での自分、私自身がどうありたいのだろうか、と。

 

 

病気の事を理由に、いろんな事を諦め、周りを見下し優越感に浸り、正当化する自分…。

それを気づかせてくれた人がいた。

 

 

今、わたしにとって働くということは、単なる生活の一部にしか過ぎない。

お金を得て、生活していく。

仕事の内容を考えると、自分と、患者さんと向き合い、相手がどうなりたいか、どうしたいか、に、精一杯向き合う日々。

 

私は何が得意で、何が苦手なのか。

どんな仕事に向いているのか。

最近は、薬剤師に拘らなくても良いのかもとさえ思う。

ずっと、薬剤師として生きていくしかない、この業界以外には働けないと思っていたのにね。

 

どんな場でも、自分を活かしきりたい。

自分を活かせる場を選んでいく。

薬剤師としての自分とか、限定しないで。

そんな風に考えが変わってきた。

 

もし、私が一番自分を活かせる場を見つけたら、その場を選べるなら…。

 

 

 

6回目の転機が、訪れるかもしれない。